【あなたの知る野球の記憶】「鳴尾球場」

甲子園誕生前夜の聖地!高校野球第二の故郷を深掘り

夏の高校野球、その歴史を語る上で欠かせないのが「甲子園球場」ですが、実は現在の甲子園球場ができる前、大会が開催されていた別の“聖地”があったことをご存じでしょうか?それが、兵庫県西宮市にかつて存在した「鳴尾球場」です。今回は、高校野球(当時は中等野球)の黎明期を支えたこの球場について、その設立から廃止までの歴史、そして現在の姿を深掘りしていきましょう。

鳴尾球場の現況とアクセス

現在の鳴尾球場跡地は、兵庫県西宮市の浜甲子園運動公園の一角に位置しています。かつて阪神甲子園球場がまだ存在しなかった時代、その南へ約1.5kmの鳴尾村(現在の西宮市)に位置しています。

甲子園駅を降りると甲子園球場の文字が!

現在、鳴尾球場の跡を示すモニュメントは、浜甲子園団地の浜側一帯に整備された**浜甲子園運動公園(鳴尾浜公園)内に建てられています。阪神本線の甲子園駅から甲子園筋を南へ、甲子園を通り過ぎ、その道を真っすぐ南へ約1.5km(徒歩16~17分)**歩くと辿り着ける、散歩にも最適なコースです。

ただ、日差しが厳しい真夏に行きましたので散歩するには余りにも危険です。スタッフはしっかり甲子園駅から出ているバスを使いました。平日の朝早い時間ということもあり、かなり空いていたので着席も出来たのは有難かったです。かなり近くまで行けるので夏じゃなくてもバスを使いましょう。

バスを降りて鳴尾球場跡に向かう道中になんと、あの有名な阪神園芸の文字が!

ここまで来ると、公園はすぐそばです。もうちょっとだけ続くんじゃ

なにやら、それっぽい銅像があります

銅像近くまで歩くと西宮市オリジナルのマンホールが。甲子園をデザインで使えるというのがかなり羨ましいですね。私の生まれの千葉でも長嶋茂雄のマンホールとか作ってください。

まっすぐ進むと銅像や野球ができるくらい広々としたグラウンドがあるのですが、公園部分は地元の方が盛んに利用しているようです。入口に対して、真正面が跡地としての機能が、右と左に歩いていくと大人数でも窮屈しない、広々とした公園が広がっています。

銅像の足元まで行くと「鳴尾球場跡地」の文字が。こういったものを見ると感慨深いものを感じますね。

そしてこれが記念碑となります。縦に長い!

鳴尾球場設立の経緯

夏の高校野球の前身である「全国中等学校優勝野球大会」は、1915年(大正4年)に大阪府豊中市にあった豊中グラウンドで第1回大会が開催されました。しかし、豊中グラウンドは収容人数が少なく、高まる中等野球人気に対応できませんでした。また、当時の箕面有馬電気軌道(現:阪急電鉄)の輸送力も乏しく、溢れる観客を捌ききれない状況でした。さらに、出場校の旅費は主催者が負担していたものの、滞在費は各校の自費だったため、大会期間の短縮が強く求められていたのです。

そこで目を付けられたのが、輸送力に長けた阪神電気鉄道の沿線にあった「鳴尾競馬場」でした。阪神電鉄は競馬客の大量輸送に慣れており、また競馬場は広大な敷地を持っていたため、野球場を2面造ることが可能で、試合消化を迅速に行えるという画期的なアイデアでした。阪神電鉄は、馬券発売が禁止されていた時期に競馬以外の催事開催で経営を賄っていた阪神競馬倶楽部から鳴尾競馬場の馬場内の土地を1914年から借用し、1916年には陸上競技場、野球場、テニスコート、プールを併設した「鳴尾運動場」を開場していました。

こうして、観客輸送の問題と試合進行の効率化という双方の課題を解決できる鳴尾球場が、1917年(大正6年)の第3回大会から全国中等学校優勝野球大会の新たな会場となったのです。

鳴尾球場稼働時期の出来事

鳴尾球場は、1917年の第3回大会から1923年の第9回大会まで、全国中等学校優勝野球大会の舞台となりました。

この期間には、歴史に残る特異な出来事も発生しています。

第4回大会の中止

鳴尾球場跡地のモニュメントには、第3回から第9回までのトーナメント表が飾られていますが、第4回大会だけは出場校が書かれているのみでトーナメント表がありません。これは、1918年に富山県魚津の主婦たちから勃発し、全国に飛び火した「米騒動」が原因で、全国大会が中止されたためでした。戦争以外の理由で中等野球大会が中止になったのは、後にも先にもこの大会だけという、異例の事態でした。

鳴尾球場は競馬場の馬場内に設けられた運動場の一部であり、野球観戦用のスタンドは常設ではなく、8段の木造移動式スタンドが設置されていました。約5千~6千人の観客を収容できたものの、満員時には観客が座ったままスタンドを大会役員が移動させるという光景も見られたそうです。また、グラウンドの水はけが非常に悪く、雨が降るとしばらく使えないという問題も抱えていました。

鳴尾球場廃止に至った理由:甲子園の誕生

鳴尾球場は、豊中グラウンドと同様に、その人気に対応しきれない状況に陥りました。所詮は急造の施設であったため、小規模な移動式木造スタンドでは、超満員の観客がグラウンドに溢れ出てしまい、試合がたびたび中断するという事態が発生するようになりました。特に、1923年8月に行われた第9回大会の準決勝では、観客がグラウンドに流れ込み試合が一時中断したことが記録されています。

この事態を重く見た主催者の大阪朝日新聞社は、本格的な野球場の建設を阪神電鉄へ打診しました。一方、阪神電鉄も、1922年に武庫川改修工事で廃川となった広大な土地(枝川・申川廃川敷地)を取得しており、その開発の一環として自前の運動場建設を検討していた時期でした。

こうして双方の思惑が一致し、「東洋一の大球場」を目指して現在の阪神甲子園球場の建設が決定されました。甲子園球場は1924年3月に着工し、同年7月31日に竣工、8月1日には開場するという突貫工事で完成しました。これに伴い、鳴尾球場での全国大会の開催はわずか7年間で幕を閉じ、第10回大会からは甲子園大運動場(現・阪神甲子園球場)へと移されたのです。

まとめ

鳴尾球場は短い期間の使用に留まりましたが、その存在が現在の高校野球人気の礎を築いたことは間違いありません。甲子園へ観戦に訪れた際には、ぜひ少し足を延ばして、この高校野球の知られざる歴史を体感しに鳴尾球場跡地を訪れてみてはいかがでしょうか。

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