はじめに
現代では二塁手はNPBでは守備力が優先され、MLBでも打力も要求されるようになりましたが、やはり守備力が要求されるポジションです。NPBでは埼玉西武の外崎、広島東洋の菊池、MLBではアストロズのホセ・アルトゥーベ、ダイアモンドバックスのケテル・マルテなどが代表されます。
昔のメジャーリーグには、チーム一のスラッガーが二塁を守っている時代がありました。右打者最高打率の.424を記録したロジャース・ホーンスビー、歴代最高の打率.426を記録したナップ・ラジョイ、こういった伝説的な選手たちが、実は二塁を守っていました。
彼らは打撃が売りの選手なのに、守備力を要求される二塁手を守ったのか。現代の野球とは全く違う、当時の野球の世界をのぞきながら、二塁手というポジションがどう変わってきたのか、一緒に見ていきましょう。
“伝統的な”二塁手たちと彼らの打撃力

上のリンクはジェイ・ジャフが自身の著書**『The Cooperstown Casebook』の中で、殿堂入りの是非を判断するために用いたJAWS**という指標について解説しています。この本には、本記事で使用されているJAWSの指標に基づき、誰が殿堂入りにふさわしいか、ふさわしくないかの概要が記されています。
JAWS (Jaffe WAR Score system) は、セイバーメトリクスの専門家であるジェイ・ジャフによって、選手の殿堂入りの価値を測るための手段として開発されました。選手のJAWSは、キャリア通算のWARと、7年間のピーク時のWARを平均したものです。なお、特定のポジションにおける平均値を算出する際には、打撃または投球のWARのみが使用されます。
現役の殿堂入り選手たちは、まずポジションごとにグループ分けされ、ポジションごとの平均JAWSが算出されます。
rank | name | JAWS | season |
---|---|---|---|
1 | Rogers Hornsby | 100.6 | 1915-1937 |
2 | Eddie Collins | 94.3 | 1906-1930 |
3 | Nap Lajoie | 83.5 | 1896-1916 |
4 | Joe Morgan | 80 | 1963-1984 |
5 | Charlie Gehringer | 69 | 1924-1942 |
上記の表はJAWSの上位5人をあげました。Joe Morgan という例外がいますが、それでもランクインしている選手は第2次世界大戦終戦までの期間に現役を終えています。
ロジャース・ホーンスビーは、通算打率.358を誇り、史上唯一の「シーズン打率4割・40本塁打」を達成した、伝説的な打者。
エディ・コリンズは通算3315安打、MLB最多の512犠打を記録、 10万ドルの内野陣を形成したアスレチックスの名選手。
ナップ・ラジョイは1901年に歴代最高のシーズン打率.426を記録、更にこの年は三冠王に輝き近代野球では珍しい二桁本塁打(14本)を記録した選手です。
チャーリー・ゲリンジャーはデトロイト・タイガースの二塁手として1937年に首位打者とMVPのタイトルを獲得した名選手で1934年には日米野球に参加。その守備を見た苅田久徳は「これからは二塁手の時代だ!」と、遊撃手から二塁手に転向するほどの衝撃を与えた名選手でした。
このようにMLBで名を残すような二塁手は打力に魅力があり、20世紀初頭の選手に集中していることがわかります。
二塁手はなぜ守備よりも打撃が優先されたのか
記事を執筆するきっかけになったのは『下妻第一高等学校野球部史 ー中学時代篇ー』という本。そこにはこのような記述がありました
バウンドキャッチであったため二塁手はこの上なき閑職として守備力を問題とせず、打力優秀なるものを選んだ。
正確には飛田穂州 著『野球人国記』にある記載なのですが、日本に野球が伝来した当時は『ノーバウンドキャッチだけではなくワンバウンドで捕球した場合でもアウト』というルールが採用されていました。
この結果としてどうなったのか、昔は左打者が少ないせいで強い打球が一二塁に飛ぶことは少なく、仮にゴロが来ても一塁に近いので送球の速さも必要ない。結果、守備能力が低い選手が二塁手を務めるようになったのです。
消えたはずのルールの伝道者【ホーレス・ウィルソン】
しかし、このワンバウンドキャッチというルールはベースボールの歴史の最初期に使用されていたもので、アメリカでは1865年にすでに消えていたものでした。しかし日本では旧来のワンバウンドキャッチルールが採用されていました。
その詳細な理由は不明ですが、野球伝来直後にこのルールが採用されていたということは、ホーレス・ウィルソンがワンバウンドキャッチを教えていたということになるのでしょうか。ウィルソンは1858年から1862年までケントヒル高校に在学していたとされるので、ルール変更前にプレイヤーだったと推測できます。
遅れたルールが採用されていた明治初期の日本野球も、おそらく早期にアメリカと同じルールが採用されるようになったのか、大正時代になると現代とほぼ変わらぬルールとなり、二塁手の認識も「遠投は出来ずとも足が速く、ポジショニングやグラウンド、天気によって動きを変える、ある程度の頭脳を要求される守備位置」という、現代と似通ったものに変化していきました。
参考資料
支倉万里, 菊池広畔 著『最新野球戦術 : 改正野球規則応用』,綱島書店,大正11. 国立国会図書館デジタルコレクション https://dl.ndl.go.jp/pid/971628 (参照 2025-08-31)
飛田穂州 著『野球人国記』,誠文堂,昭和6. 国立国会図書館デジタルコレクション https://dl.ndl.go.jp/pid/1179786 (参照 2025-08-31)
下妻第一高等学校野球部史 ー中学時代篇ー,平成15
和田六灘子 著『野球術 : 最新研究』,博文館,大正6. 国立国会図書館デジタルコレクション https://dl.ndl.go.jp/pid/956042 (参照 2025-09-07)


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