最近ネタ探しに苦労している筆者でございますが、こういったときは当時の雑誌をパラパラめくっていく以外の解決策がありません。ということでベースボールマガジンの1957年7月号をめくっていると、西鉄ライオンズの特集ページが組まれていました。
見ていくとチームの一軍選手に以下の内容をインタビューしていました。
1.西鉄の強敵はどこか
2.あなた自身の調子は
3.苦年の投手または打者(苦手な選手)
4.チームの大型化についてどう思うか
5.西鉄は優勝できるか
1957年の西鉄ライオンズは苦境に陥っていた
西鉄ライオンズは前年の1956年にリーグ優勝を達成。MVPの中西太、豊田泰光をはじめとした強力な野手陣に、島原幸雄、新人の稲尾和久、西村貞朗、河村久文らの投手陣も戦力層が厚く、57年は連覇を期待されていました。
しかし、前年主力だった島原が左足首を骨折し長期離脱、1955年に21勝を挙げた大津守も1956年から絶不調。シーズン前半をイマイチ乗り切れずに、1位毎日、2位南海の下、3位に位置し、4位の阪急とAクラス争いを繰り広げている戦況でした。
そんなチーム状況でインタビューを受けているのですが、基本的には、ありきたりというか、当たり障りのない内容の返答が多くを占めました。ただ、西村貞朗(にしむら・さだあき)の返答が少し面白いと思ったので、それを紹介しながら1957年のパリーグを見ていきたいと思います。

西村貞朗の回答内容がこちらです
1.西鉄の強敵はどこか
→全球団みんな強いよ。毎日、南海は、その中で特に秀でているに過ぎない。南海の打撃はこれから伸びてくるが、投手がいない。投手がいないことは夏場にかけて致命的だ。
2.あなた自身の調子は
→調子はいまのところ普通だ
3.苦年の投手または打者(苦手な選手)
→みんなニガ手だよ。榎本、山内、森下、岡本はいやだね。
4.チームの大型化についてどう思うか
→僕はそれほど大型化に神経を使わない
5.西鉄は優勝できるか
→まあね、出来るとか出来ないよりも、優勝しなきゃいかんだろう。
南海に投手はいなかったのではなく……
この中で1.の内容。
1.西鉄の強敵はどこか
→全球団みんな強いよ。毎日、南海は、その中で特に秀でているに過ぎない。南海の打撃はこれから伸びてくるが、投手がいない。投手がいないことは夏場にかけて致命的だ。
「南海の打撃はこれから伸びてくるが、投手がいない」。これは正しい認識なのか。
1957年の南海ホークスの投手陣をシーズン成績から見ていくと
・木村保 21勝
・皆川睦雄 18勝
・長光告直 12勝
・田沢芳夫 10勝
・野母得見 8勝 187.2回
これらが主力投手と言えるでしょう。一見すると一線級は少ないですが、枚数は揃っているように見えます。
発言の別の部分、「南海の打撃はこれから伸びてくるが」、これに関してはどうでしょうか。
夏場以降、打撃成績が伸びる南海の選手。この言葉を象徴する活躍をしてくれたのが、何を隠そう野村克也でした。
この前年から正捕手の座を掴んだ野村は、ついに打撃のコツをつかんだのか長打力が開花。6月10日時点では
打率.295 11本 40打点の成績でしたが、シーズン終了時には打率.302 30本 94打点。リーグ唯一の30HRを記録し見事本塁打王にも輝きました。
チーム全体でも若手の台頭が目立ち、シーズン100試合以上に出場した7選手が全員20代だった南海ホークス。野手陣の力はかなり大きかったでしょう。
しかし、7月に7勝10敗と少し停滞した南海に対し、西鉄は7月には12勝4敗を記録し月末には首位を奪還、7月27日の試合から8月18日まで引き分けを挟みながら14連勝を記録し、8月には16勝2敗を記録し、首位を独走。そのまま見事リーグ2連覇を達成しました。
なぜ、南海は西鉄を止められなかったのでしょう。考えるに、直接対決で全く勝てなかったこと。南海はとにかく西鉄相手になると猫の如く弱弱しい姿をさらけ出してしまうのです。シーズンの対戦成績は7勝15敗で勝利数の二倍敗戦を重ねてしまいました。更に木村保は西鉄相手に一度も勝てず、対南海でシーズン5連敗を記録。エースらしさを感じない投球内容に終始してしまったのが痛すぎました。
木村保について
木村保は早稲田大学から入団するといきなりエース格の投手に。最終成績の防御率2.462はパリーグ8位であり、見事新人王を獲得、立派な大投手であり、鶴岡監督も「木村は計算できる投手、あいつならまず勝てる」と太鼓判を押していました。しかし他のチームならいざ知らず、肝心の西鉄にだけ、木村が凡百の投手に成り下がってしまったのが南海の誤算でした。
木村に関しては、川崎徳次もコメントを出しており、「西鉄を自信をもって牛耳る投手はそういないよ。毎日の荒巻、小野、阪急の梶本くらいなものだろう。ルーキー木村はいいんだろうが、うちの選手はこわがっていないよ」とコメントしており、癖を掴んだのか、タイプ的に好みの投手だったのかはわかりませんでしたが、西鉄陣も特に恐れている所はなかったようです。
ゆえに、南海に投手がいなかったというよりは、肝心の木村が西鉄に通用しなかった、というのが正確な認識といえるのではないでしょうか。
その西鉄を支えたのは前年1956年に新人王となった稲尾和久。6月10日時点で8勝3敗の成績でしたが、6月から一気に登板機会が増え、最終成績は68登板35勝6敗。ただ、3月4月は稲尾の登板数がイメージより少なく、他のチームのパフォーマンスが低下してくる7月に登板数を増やすことで、勝ちを拾いに行く、というような三原監督の戦略を感じ取れますね。
1957年のシーズンは、新旧新人王の使い方で明暗が分かれたというのは、個人的に新発見だったのですが、皆様はいかがでしょうか?
参考サイト・記事
日本プロ野球記録 様 https://2689web.com/1956.html
ベースボールマガジン 1957年7月号
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