【野球の記録】タイラー・ネビンのノーヒットスポイラーはなぜ注目されるべきなのか?

先月6月29日の埼玉西武ライオンズと北海道日本ハムファイターズの試合で、埼玉西武のタイラー・ネビン選手が1人4安打のノーヒット・スポイラーを達成しました。

最近は様々な指標や限定的な記録が多く取り上げられることもあり、慣れていない人(筆者もその一人)はどの記録がどういった内容なのかが混乱してしまうことが困りものです。
今回お話しする【ノーヒット・スポイラー】とは、チームでただ一人だけ安打を記録しノーヒットノーランを阻止した選手のことを指します。得点の有無、勝敗は考慮されません。
その選手さえいなければ、ノーヒットノーランを達成できたのにそれを台無しに、ダメにした選手といった感じでしょうか。

今回の記事も 宇佐美徹也(1995).プロ野球データブック≪最新版≫.講談社文庫 を参考にさせていただいていますが、1995年に発刊されており、その頃には有名では無いものの珍記録としては認知されていたようです。

ノーヒット・スポイラーはその記録の特性上、対戦投手が絶好調、すこぶる調子がいい試合で記録されます。故に基本は1安打や2安打でノーヒット・スポイラーが達成されます。日本において最多の記録を誇るのは、坪内道則(つぼうち・みちのり)選手。

彼は通算で5度記録していますが、2安打が1試合、1安打では4度の達成となっています。

またメジャーリーグの最多記録は、1960年中盤から70年代にかけて活躍したユーティリティープレイヤーであるシーザー・トーバーで通算5回。彼は全て1安打での記録となっています。

こういった経緯もあり、今回の1人4安打でのノーヒット・スポイラーが名記録でありながら珍記録でもあるということを理解しておく必要があるでしょう。

ただ、この4安打ノーヒット・スポイラーというのは既に1度達成されています。

それは山田伝という当時阪急の選手によって達成されました。(電気屋みたいな名前…)

ベースボール・マガジン社 – 『ベースボールマガジン』 1998年夏季号、18頁, パブリック・ドメイン, https://commons.wikimedia.org/w/index.php?curid=42914804による

山田は戦前から戦後の1リーグ時代にかけて阪急一筋のフランチャイズ・プレイヤーとして活躍した選手で、左投げ右打ちの外野手という珍しい利腕をしている人物でもあります。俊足として名をはせた選手で、またヘソ伝という仇名があったことでも有名な選手。
1937年秋にデビューした山田は、1938年秋にチームトップの40試合に出場すると、1939年には30盗塁で盗塁王を獲得。当時の阪急は長打力不足を補うために機動力野球を展開しており、その筆頭として活躍したのが山田でした。デビュー当初は打率や長打力は一線級と呼べる選手ではありませんでしたが、1番や2番を打つ選手にしては四球を選べる選手でもありました。
1940年には確実性を向上させ打率.272を記録、この年制定されたベストナインで外野手として表彰を受けました。1943年には56盗塁で2度目の盗塁王、さらにこの年は呉昌征(ご・しょうせい)が史上唯一の打率2割台での首位打者を達成した年ですが、実は2位にランクインしたのが山田であり、打率.271という好成績を記録、阪急の理想的なリードオフマンとして成長を見せたのです。

前置きが長くなりましたが、そんな山田がノーヒット・スポイラーを達成した日が1938年の7月3日、対イーグルス戦。この日のイーグルスはダブルヘッダーであり、この試合はその2戦目でした。イーグルス先発投手は制御不能の豪腕、エース亀田忠でした。

この日の山田は初回に右前安打を記録すると、詳細不明ですが3回。6回、8回の打席で連続内野安打を記録。阪急には当時西村正夫、堀尾文人、宮武三郎などの好打者も揃っていましたが誰も安打を放つことはできず。この日の亀田は相変わらずの好調ぶりで5四球を吐き出しながらも6奪三振で完投勝利を達成したのでした。

今回はノーヒット・スポイラーと山田伝がメインでしたが、これ以外にも珍記録に関するエピソードをこれからも紹介していきたいと思います。

参考文献・参考サイト

日本プロ野球記録 様
https://2689web.com

宇佐美徹也(1995).プロ野球データブック≪最新版≫.講談社文庫.

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