川崎球場跡地、富士通スタジアム川崎に行ってきました

本日、2025年のNPBのレギュラーシーズン全日程が終了いたしました。皆さんが応援しているチームはどんな結果を残したでしょうか。

今年度から野球雲マップを始めたこともあり、人生初の甲子園球場訪問を実施したり、関東圏の野球名所めぐりなどをしていました。今回はペナントレース最終盤と密接に関係する野球の名所【川崎球場】、の跡地である【富士見スタジアム川崎】に行ってまいりました。

川崎富士見球技場は、神奈川県川崎市川崎区に所在する球技場です。1952年に開場した川崎球場を前身としています。大規模な改装工事を経て2001年5月に全面竣工し、2014年4月1日に「川崎富士見球技場」に改称されました。

2015年4月からは富士通が命名権を取得し、富士通スタジアム川崎(略称:富士通スタ)として呼称されています。施設は川崎市が所有し、東急コミュニティーと川崎フロンターレが指定管理者として運営管理を行っています。

硬式野球での使用はできませんが、アメリカンフットボールや軟式野球の他、フットボール系の種目や各種イベントに使用されています。フィールドはロングパイル人工芝で、グラウンドの形状は長方形型の球技場形式に一新されており、収容人員は約6,000人です。

富士通スタジアム川崎に縁がある野球ファンはそう多くないと思いますが、前身の川崎球場はプロ野球、特にパリーグの名場面の舞台となった球場として、強く印象に残っているパリーグファンの聖地とも呼べる場所です。

今回は日記形式ではありますが、川崎球場についてまとめましたのでご紹介させていただきます。


1. 川崎球場の設立経緯

川崎市は京浜工業地帯の一角を占め、多くの企業が拠点を置いていたことから、戦前から社会人野球が盛んな地域でした。1951年(昭和26年)には、市内で新たな社会人野球向けの野球場を建設する機運が高まりました。その結果、川崎市と日本鋼管、東芝、味の素、日本コロムビア、昭和電工、いすゞ自動車などの主要企業が共同出資し、「株式会社川崎スタジアム」が設立されました。こうして、川崎市富士見の富士見公園内に川崎球場が竣工し、1952年(昭和27年)3月に内野スタンドが設置されました。

プロ野球公式戦としては、1952年4月3日に東急フライヤーズ対大映スターズ戦が初めて開催されました。開場当初、外野スタンドはごく最小限の設備でしたが、その後に増築計画が立案されました。

2. 球場を主に使用していた球団と使用していた年月

川崎球場を本拠地とした主なプロ野球球団は以下の通りです。

球団名使用期間備考
高橋ユニオンズ1954年〜1956年プロ球団として初めてフランチャイズ化。1956年オフに大映スターズと合併し消滅
大洋ホエールズ1955年〜1977年1957年(昭和32年)から1977年(昭和52年)の21シーズンで本拠地。1978年からは横浜スタジアムへ移転
ロッテオリオンズ1978年〜1991年1978年(昭和53年)から1991年(平成3年)までの14シーズン、大洋に代わって本拠地とした。1992年からは千葉マリンスタジアム(現:ZOZOマリンスタジアム)へ移転

開場当初の1952年、パ・リーグの東急や大映、毎日オリオンズ、セ・リーグの読売ジャイアンツ(巨人)や国鉄スワローズなど計5球団が後楽園球場を本拠地としていたため、過密化していた首都圏のプロ野球の日程解消に川崎球場が役立っていました。

3. 川崎球場での印象的な試合の紹介

川崎球場は、数多くの歴史的な名場面の舞台となりました。

  • 大洋ホエールズの日本一(1960年) 1960年(昭和35年)、三原脩監督率いる大洋ホエールズが球団史上初のリーグ優勝を飾り、川崎球場で開催された日本シリーズでも大毎オリオンズを下し日本一に輝きました。この日本シリーズが、川崎球場で行われた唯一の日本シリーズとなりました。
  • 王貞治の通算700号本塁打達成(1976年) 1976年7月23日の対巨人戦(8回表、大洋投手の鵜沢達雄から)で、王貞治選手は日本プロ球界史上初となる通算700本目の本塁打を右翼スタンドに架けました。この記録を記念するプレートが右翼席最前列に設置され、川崎球場は当時「700号球場」とも呼ばれました。
  • 張本勲の通算3000本安打達成(1980年) 1980年5月28日のロッテ対阪急戦で、ロッテの張本勲選手が山口高志投手から放った本塁打が、日本プロ野球史上初となる通算3000本目の安打となりました。後日、本塁打が当たった点を示す表示板が右翼スタンド上段に設けられました。
  • 「10.19」(1988年) 1988年10月19日、ロッテ対近鉄バファローズのダブルヘッダーにおいて、近鉄がリーグ優勝のマジックを「2」として臨んだ大一番となりました。球場の収容能力を超える観客が詰めかけ大きな混乱を招きましたが、近鉄は第1試合に勝利したものの、第2試合は引き分けに終わり、優勝を逃すという劇的な結末を迎えました。そこに至る経緯から試合展開、メディアの盛り上がりなどもあり現在でも伝説の試合として語り継がれています

球場前の施設では、川崎球場の足跡を紹介しているコーナーがあり、窮状で誕生した偉大な記録に触れることができます。

4. 富士見スタジアム川崎設立に至るまでの経緯

ロッテオリオンズは1991年(平成3年)でプロ野球の本拠地としての使用を終了し、1992年(平成4年)から千葉マリンスタジアムへ移転しました。その後、川崎球場では1992年7月に千葉ロッテマリーンズ対近鉄バファローズの1軍公式戦が開催されたのが、川崎での最後の1軍公式戦となりました。1997年(平成9年)に巨人主催のイースタン・リーグ(2軍)公式戦が開催されたのが、川崎での最後のプロ野球公式戦となりました。

プロ野球の開催はなくなりましたが、その後も高校野球、首都大学野球、社会人野球などのアマチュア野球の公式戦 や、アメリカンフットボール「Xリーグ」の公式戦が本格的に行われるようになりました。

川崎市は、施設の老朽化問題を背景に、1995年11月に球場を撤去する方針を決定しましたが、その後も各種イベントや一般利用が続けられました。しかし、1999年12月に市が実施した耐震検査の結果、スタンド部分が震度5以上の地震で倒壊する危険性があることが指摘されました。これを受け、市は2000年1月に、3月31日限りで川崎球場を閉鎖し、スタンドの解体・撤去を行うと発表しました。

閉鎖直前の2000年3月26日には、川崎球場を本拠とした横浜とロッテによるオープン戦「川崎球場ファイナルシーン」が開催され、21,000人の観客が最後のプロ野球の試合を見届けました。

2000年4月からスタンドの撤去工事が開始され、フィールド部分はアメリカンフットボールなどで使用されつつ、2001年(平成13年)5月に現施設が全面竣工し営業を再開しました。この際、硬式野球での使用はできなくなり、アメリカンフットボールと兼用できる磁気反転式のスコアボードや土盛りスタンド(2,700人収容)が新設されました。

2007年(平成19年)には第3回アメリカンフットボール・ワールドカップが川崎市で開催されたのを契機に、老朽化した室内練習場が撤去され更衣室棟(クラブハウス)が建設され、仮設スタンドの新設やグラウンドの人工芝化などが行われ、事実上アメフト専用スタジアム化されました。

その後、本格的な球技専用スタジアムとしてのリニューアルが図られ、2012年4月からスタンドやグラウンドの増改築工事が実施され、グラウンド形状は野球場時代の「ダイヤモンド型」から長方形型の「球技場」形式へと一新されました。

2014年4月1日、施設名が「川崎富士見球技場」に改称されました。

さらに、川崎市初の公営施設における命名権協賛スポンサーの募集が行われ、2015年1月に大手電機メーカーの富士通が協賛スポンサーになることが発表されました。同年4月1日に、この名称でリニューアルオープンし、現在では「富士通スタジアム川崎」(略称:富士通スタ)と呼称されています

テレビじゃ見れない川崎球場というキャッチコピー、平成世代の私は一度もいくことが出来ませんでしたが、こういった資料をしっかり残してくれているのがとてもうれしいです。

5.富士通スタジアム川崎から垣間見る川崎球場の残滓

スタンドから右を見ると芝生で出来た空間があり、試合の際は観戦ができる観客席となっています。実はこの部分に川崎球場の名残があるのです。近づいてみましょう

芝生席の前にベンチのある窪んだ所があるのですが、実はここ、川崎球場時代に記者席だった場所。ここから新聞記者たちが試合を見ていたんです。

川崎球場では本塁付近だったので当時を再現すると、バックネット裏はこういった感じの視点だったのでしょうか。

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