【野球の記録】あの1球、あと1人、バラ色からの泥沼に転落……ノーヒットノーランを目前にしながら敗戦した悲劇の珍記録

6月19日の日本ハム対巨人の試合で9回1死までノーヒットノーランの快投をみせた日本ハムの北山亘基(きたやま・こうき)選手の好投に称えるためにノーヒットノーランを目前にしながらも逃してしまった記録について少し書いていきたいと思います。

1963年の5月26日の阪神タイガース対大洋ホエールズダブルヘッダーの2戦目、球場は阪神甲子園球場。

初戦は阪神が小山の完投で3対1で勝利、2戦目は阪神がバッキー、太洋が稲川誠の両先発で始まりました。

バッキーはこの年2年目。先発投手の一人という位置づけでしたが、制球力に課題がありイマイチなシーズン成績を残すことになります。大活躍を見せるのは翌年以降。対する稲川も2年目のシーズンでしたが既にチームのエースとして活躍、シーズン通算で26勝、防御率2.42という好成績を残しました。後世から見ると好投手の投げ合いでしたが、当時の感覚ですと”初戦を落とした大洋が必勝を期し、格上の投手をぶつけてきた”といったものだったでしょう。

そんな予想を裏切り、試合は一球たりとも気が抜けない投手戦となりました。稲川は5安打無失点、長打はヤシックの二塁打だけという圧巻の投球。一方のバッキーも、完全試合ペースで8回までマウンドを支配していました。


そして9回表、完全試合目前のバッキーが、満身の力を振り絞りマウンドへ。先頭の7番・近藤昭仁を二塁フライに仕留め、あと2人…球場全体が固唾を呑みます。ところが、続く8番・土井淳をカウント2ストライク3ボールから痛恨の四球で歩かせ、ついに完全試合の夢が崩れ落ちました。

なんとしても得点したい大洋ベンチは、9番・稲川にバントを命じます。転がした打球を三塁手ヤシックが猛ダッシュで処理し、迷わず二塁へ!…が、これが痛恨の悪送球となり、1死一・三塁の大ピンチとなります。続く1番のところで島田幸雄が代打で登場しましたが、力ない投手ゴロ。三塁走者がホームで刺され、2死一・二塁となり、阪神側から安堵のため息が……。

次の打者は守備固めから入っていた浜中祥和(はまなか・よしかず)。大学時代のケガから、打力はほとんど期待されていない男です。

その浜中が放った打球は、投手の股を抜け、名手・吉田義男の守備範囲へ。「これで終わりだ!」という捕球のその瞬間…なんと、打球が二塁ベースに直撃!方向が一転し、転がる球に一瞬固まる阪神の内野陣。
浜中が一塁へ滑り込み、二塁から猛然と稲川がホームへ!完封どころか、勝利すら一瞬でさらわれてしまいました。

その後、反撃の糸口も掴めない阪神。一方、起死回生の一打で息を吹き返した稲川が最後までマウンドを守り抜き、勝利をもぎ取ります。まさに、勝負の神様が一球で笑う相手を決めた、劇的で非情な幕切れとなりました。

バッキーは翌年、杉下茂の指導を受け覚醒し、外国人投手初の沢村賞と最多勝、最優秀防御率の二冠を獲得し、1965年には巨人相手にノーヒットノーランを達成するなど大投手として成長しましたが、活躍以前にもこういったエピソードがあるのが面白い選手だと思います。

9回1死までノーヒットノーランだった選手を取り上げてまとめてみようかと思ったのですが、着眼点を変えましてこのお題になりました。

参考資料
https://npb.jp/history/alltime/near_nohitnorun.html
https://2689web.com/1963/TW/TW4.html

宇佐美徹也(1995).プロ野球データブック≪最新版≫.講談社文庫.

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