【野球小噺】だから川上は監督になれた 晩年の川上哲治の評判と権力闘争に”敗れなかった”その片鱗

今週はベースボールマガジンの1957年1月号を参考に書いていきます。
巨人最大の黄金期といえば昭和年代のV9の時代というのは誰もが認めるところでしょう。その時代監督を務めたのは川上哲治というのは皆さんご存じの通りです。

彼は昭和13年に投手として入団しましたが、打撃の才能を買われ終戦前から巨人の主力打者として大活躍。弾丸ライナーと称される火の吹くような猛打でヒットを量産し、プロ野球史上初の2000本安打達成者となりました。選手としても超一流ですが、現役を退いた後は巨人の監督として先述のV9を作り上げたことで名将としても称えられています。

そんな川上は現役晩年、権力闘争の渦中にいました。当時、正力松太郎に気に入られていた川上なのですが、その正力と球団社長だった品川主計(しながわ・かずえ)は千葉茂を次の監督に据えようと画策していました。将来のコーチ人事から正力と品川の対立関係が表面化し、川上はその中心的な存在だったのです。

この後の展開を知っている我々からすると意外な話に思えるかもしれませんが、1957年当時の評判としては千葉茂の方が優勢とすることもありました。その理由として、千葉茂は後輩の面倒をよく見る性格であり選手間の評判がかなり良かったことが挙げられます。そういったひととなりからくるカリスマ性を当時から高く評価されていたのです。

対する川上も内藤博文、岩本尭、藤尾茂、加倉井実、坂崎一彦からは慕われていたそうですが、もし仮に選手間の選挙が開催されたら千葉茂の圧勝とも目されていたのです。しかし川上はその後、水原茂から後を引き継ぎドジャース戦法や長嶋と王貞治を中心としてチーム作りが奏効し黄金期を作り上げる名将となりました。なぜ川上は監督になれたのでしょう。

今回参考にしたベースボールマガジンの1957年1月号では【大井廣介】がこう評していました。

……巨人には数度にわたって、お家騒動が起きたが、川上は何時も中立を守った。三原排斥の連判状の作られた時、日頃三原と親しいので、ヤンチャな藤原鉄之助が川上を撲る係にきまっていたが、中立で動かなかったから撲られもしなかった。水原排斥の連判状ができたというデマがとび(連判状があるといったのは、どの騒ぎにも重要な役割をつとめた人で)そのため水原も株をさげ、水原に批判的な選手達も、痛くもないハラをさぐられたが、中立の川上の株は相対的にあがった。

ベースボールマガジン1957年1月号-『球界人物風景 川上哲治-球界の王将を語る』


これは果たして川上のマイペースな部分が出たのか、それとも彼自身のしたたかさから出た行動ととるか。結果として川上は後に監督となるわけです。

今回はここまで

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