先週公開分に引き続き、野球界の昭和30年7月号から『座談会 巨人軍のかけだし時代』などを参考に当時の選手たちの給料はどのくらいだったのかを書いていきたいと思います。
巨人軍選手の入団時の待遇
この座談会に参加していたのは昭和30年代の巨人軍の重鎮として活躍していた

- 水原茂 監督
- 川上哲治 助監督
- 千葉茂 助監督
- 中尾碩志 主将
記事内で紹介のあった選手たちの月俸がこのような感じになります。
選手名 | 仕度金・契約金(円) | 月給(円) | 年給(円) |
---|---|---|---|
三原脩 | 0 | 170 | 2040 |
水原茂 | 0 | 170 (5年契約・年俸変動制) | 2040 |
川上哲治 | 300 | 110 | 1320 |
千葉茂 | 約120 | 1440 | |
中尾碩志 | 300 | 115 | 1380 |
巨人軍は球界では珍しくシーズンが終了すると年末のボーナスと昇給がありました。これには分類が甲乙に分かれ、甲だと月10円の昇給、乙だと月5円の昇給があったのですが、甲組の常連だった川上哲治と千葉茂は毎年のように給料が上がり、共に兵役の為にキャリア中にチームを離れますが、退団直前には川上は150円と毎年10円ずつ昇給、千葉茂も同じような上昇幅で最終的に170円まで上昇したと語っています。
そんな花の十三年組よりも先に入団した面々、水原は5年契約で昭和9年の全日本チーム立ち上げの頃から昭和14年の契約最終年まで活躍し、契約最終年には220円と高額契約をつかみ取ります。そして契約満了後に30歳だった水原でしたが、貢献を評価され昭和15年からは月給270円と一気に50円の昇給となり、キャプテン手当として更に月50円も追加されると月に320円、夢の300円プレイヤーとなったのです。年俸に換算すると3840円、入団時のほぼ2倍になる数字なので相当な大盤振る舞いだったと言えるのではないでしょうか。
ちなみに他の人物、監督である藤本定義は月に監督手当を100円もらっており、水原曰く「月給はワシよりも10円くらい上なんだ」と結構な給料をもらっているのですが、川上哲治が監督と話したところ「お水(水原)はワシより月給は高いんだ」と発言しているので正確な金額が分からずじまいでしたがそれ相応の金額は貰っていたようです。
『青田昇交友録 サムライ達のプロ野球 沢村栄治からONまで』によると、沢村栄治は月給270円と記載されています。手当などを一切考慮しない選手の年俸だと一番の高給取り。沢村は水原のことを「お水」、中島治康のことを「班長」と呼び年の差を感じさせない振る舞いをしていたことが良く語られます。これには当時の巨人内では入団順(入団年次)で序列が決まっていたことが原因らしく、全日本チーム創設時に入団し、更に活躍もチームトップで年俸もトップとなればそういう人となりになるのは理解できるでしょう。
筆者の青田昇自身は入団時が月130円、秋に首位打者をとって月150円になり銀座で派手に遊ぶ社長でも月100円取るのは稀だと言われているので、職業野球の評判が低いにもかかわらず経済的には恵まれていたと言えるのではないでしょうか。
もしご覧になっている方で『毎晩銀座で派手に遊んでいます』という人はコメントください。
他球団の選手はどうだったのか?
時代が進むにつれ球界の盟主と呼ばれるようになった巨人。これが戦前球界の頂上だと思っていたのですが、実は巨人の選手は意外と給料をもらえていなかったそうです。
川上哲治は入団時に仕度金300円と月給110円で巨人と契約しましたが、創設間近の南海軍から勧誘された際には仕度金1000円月給150円という超がつくほどの好待遇で勧誘を受けました。既に契約を交わしてしまった川上は少しでも実家にカネを入れたかったこともあり巨人契約を更改したと言います。(仕度金は500円とするものもあります)
当時、太っ腹な球団と呼ばれていたのはタイガースと阪急の関西球団。
タイガースでとくに有名なのは若林忠志で契約金1万円を要求したというのは有名な話です。現在と過去で正確な物価の比較は難しいのですが、松木謙治郎 著 『タイガースの生い立ち』によると1万円あると長屋が10件以上建てることができ、家賃収入だけで生きていける金額でした。阪急や巨人に若林を取られたくないタイガースはこれを受け入れ、3年契約で月給250円、契約金1000円、手当9000円(当初予定していた年俸500円の半分250円の3年分を 250*12*3=9000)を前払いにすることで契約することが出来たのです。タイガースの高給取りとしては監督の森茂雄が若林と同じく月給250円、松木謙治郎が月給200円、景浦将が月給120円、藤村富美男が月給100円となっています。その他多くの選手が月給100円以上なので相当な大盤振る舞いなのではないでしょうか。
また阪急軍では慶応大学のスター選手であった宮武三郎と山下実をダブル契約を果たしており、共に月給がなんと500円。一流企業の役員レベルの給料をもらっており、金鯱軍から途中加入した黒田健吾も月給400円でした。川上哲治は当時月50円で生活しており、更に実家への仕送りで50円を渡していたことを考えると、いったいどういう生活をしていたのかがとても気になりますね…。
参考資料
野球界-昭和30年7月号-

松木謙治郎 著 『タイガースの生い立ち』
青田昇 著 『青田昇交友録 サムライ達のプロ野球 沢村栄治からONまで』
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