かてぃのふらふら地域野球探訪 1 ~遠賀川を通す飯塚野球の残り香~
「俺が前働いてた店に小鶴って名字の人がいたっちゃ」
深夜、私の地元田川市の隣、飯塚市に住む友人がネット通話中ポロっとこぼした。
飯塚に住む小鶴。プロ野球の歴史に少しでも触れていたらドキッとするだろう。戦前の職業野球の頃から籍を置き、京都は松竹ロビンスの三番に座って未だ破られていない161打点を残した名選手、小鶴誠だ。戦時中、官営事業であった八幡製鉄所を辞めた際に体裁が悪いから地元「飯塚」を名字にしていたのは誰もが知るところだ。
彼はその会社を辞めたため、今となっては真偽のほどは不明だ。その彼も小鶴さんに「プロ野球選手の親族はいたか」と聞いてみたらしいが「いたような気がする」程度の返事しか返ってこずはっきりとは知らなかったそうだ。
だが、小鶴の残り香が地元に漂っている。
実際はどうだったかは分からないにせよそれだけで私たちは遠い戦後に思いを馳せたものだ。
炭都筑豊の一角を担う飯塚市は、地元田川市出身の私から見ても大都市だった
車の量が多く店も多ければ人も多い。そして市中央を流れ、日本海に繋がる遠賀川のダイナミックさに心を躍らせた。私は田川市も中元寺川の近くに住んでいたのだが、その川もこの遠賀川に繋がっていくダイナミックさが飯塚という土地のパワーを思い知らされた。
その遠賀川も嘉麻から流れる遠賀川と冷水峠から流れてくる穂波川が交差して大きな川となる。その穂波川の付近にあったのが日鉄二瀬野球部のグラウンドだ。
社会保険二瀬病院が2015年冬に発効した二瀬病院だよりにはこのように書かれている。
「日鉄二瀬鉱業野球部は大正時代に発足され、グラウンドは現在の飯塚市枝国にありました」
枝国は穂波川の川沿いにある町。現在のイオン穂波店に過去あった国鉄貨物枝国駅を中心に日鉄鉱業の大きな現場がそびえたつ場所であった。そのグラウンドから農人渉(濃人渉)をはじめとして広島黄金時代を率いた古葉竹識、山賊の名前をほしいままにした江藤慎一などのヒーローが生まれている。
また日鉄二瀬のライバルであった大牟田市の東洋高圧大牟田には原貢がいた。彼の活躍は言うまでもなく、息子の辰徳もその才能を受け継ぎ、読売ジャイアンツを長年に渡って強豪として率いた。
少し話はそれるが、この遠賀川を下ったところに中間市があり、そこにはかつて強豪PL学園を率いた中村順司が住んでいた。石炭という黒いダイヤが人を呼び、そこから多くの選手を作ったのだ。
飯塚や遠賀川に住んだ多くの人々が野球を通じて活躍してきた。
過去この遠賀川付近に住んだ人々のことを川筋者と言われた。
炭鉱で生計を得ていた人々の荒々しい姿を人々はそう呼んだのだ。それは私の地元田川市における山本作兵衛が残した絵画が文化遺産登録されているように、人々にもまれながらも力強く生きた筑豊の人々の姿を現したものがその名前に残されたのだ。
炭鉱で儲かっていたならば当然人が集まる。全国から人が集まり、多くが川筋者となっていった。人が増えると娯楽が増える。飯塚には麻生太郎の血筋である麻生太七が建てた嘉穂劇場が夕景文化遺産になった。あちこちに映画館が生まれた。その時期に小鶴誠のいた飯塚商業は全国中学野球大会の常連となり、日鉄二瀬という筑豊を代表する野球部が全国で暴れまわった。そのライバルに東洋高圧大牟田、日鉄八幡、門司鉄道管理局といった福岡の雄がぶつかり合った。
まさに飯塚は野球の一大都市だったのだ。
現在は炭鉱もなくなり、そのあとを引き継ぐ形のセメントも落ち着き、特に産業もないまま段々と年を取り始めている。
飯塚にあった活気は交通網の発展と共に博多に吸い出され、「筑豊の中では比較的裕福」程度の位置に落ち着いている。
遠賀川の近くには炭鉱の名残りだった忠隈のボタ山が二つぽつんと立っているくらいで、その石で作られた山も今では木々が生えている。日鉄二瀬は姿を消し、枝国駅だけが今はショッピングセンターになって市民憩いの場になっているくらいだ。
川筋者はどこかへ消えてしまった。川筋者の愛した野球チームも選手もいなくなってしまった。ライバルもまたどこかへ消えていった。
だが遠賀川にその残り香は流されていない。今でも市の広報に小鶴誠の名前が載るように。日鉄二瀬野球部の話が残るように。脈々と文章や事実の一端に日鉄二瀬野球部やライバルたちの血筋が残されているのだ。
記憶として、川筋者野球は生きているのだ。
静かに、だがはっきりとその呼吸音が今も聞こえている。
P.N.ぬかてぃ
コメント