初投稿としては、ある意味順当すぎてつまらないと言われてしまうかもしれませんが、ここを取り上げないわけにはいきませんので、今回お話させていただきます。
東京臨海新交通臨海線、通称ゆりかもめの芝浦ふ頭駅から歩いて5分ほどに、この球場はあります。
「芝浦球場」跡地
近隣が倉庫だったりマンションが立ち並ぶ街ということもあり、その歴史を知らないと
「なぜこんな高層ビルまみれの街に球場が…?」と思うでしょう。
この球場は、今では「埠頭少年野球場」(港区によるサイトはこちら)として少年野球やソフトボールの球場として開放されていますが、ここがプロスポーツとしての野球発祥の地、「プロ野球発祥の地」の聖地であるのです。
時は大正時代、アメリカではメジャーリーグが盛り上がりを見せていましたが、日本ではそういったプロ野球のリーグは未だ誕生していませんでした。また当時隆盛を迎えていた東京六大学リーグでも風紀の乱れが見られるようになり、大学野球関係者はその打開策を探っていました。そこで早稲田大学のOBでもある河野安通志は、学生野球の模範を作ることで学生野球の浄化、及び野球界の発展を考え、1920年、当時の東京府東京市芝区の芝浦に、日本運動協会を設立しました。
中心となったのは先述の河野安通志、そのチームメイトであった押川清、橋戸信をはじめとした東京六大学野球のOB、選手としては後に、唯一「日本運動協会」と「日本職業野球連盟(現在の日本野球機構)」に在籍した山本栄一郎が在籍していました。
当時、実力の高い野球団は各地に存在していましたが、野球の試合を開催することで収入を得る、職業野球というものが誕生したのは、この日本運動協会が初めてであり、日本の歴史においても「大正時代に誕生したプロスポーツ」としても重大な歴史にもなっています。この芝浦球場を本拠地として、各地の野球団と試合するために転戦し、活動をしていました。
しかし1923年、近代日本史に残る大災害、関東大震災によって球場は軍に接収され、活動継続が不可能になってしまいました。その後阪急がこの団体を引きとり、「宝塚運動協会」として再結成し命永らえますが、結局時期尚早だったのか、1929年に解散してしまいました。しかし、この経験を生かした阪急は、後に読売新聞社が主導した日本職業野球連盟の発足に際して、関西地区の雄、阪神電鉄が創設したタイガースのライバルとして阪急軍を創設するという歴史に繋がっていくのです。
また日本運動協会の河野安通志も、1937年に後楽園イーグルスを結成。戦前で球団は消滅してしまいましたが、日本のプロ野球の誕生というものにこれ以上ない情熱と行動を示した人物として、野球ファンに今でも語り継がれているのです。
現在の球場は、少年野球専用ということもあり、大人からするとかなり小さめのサイズ感であるこの球場なのですが、本格的なベンチやバックネット裏の観客席などが設置されており、歴史にあまり興味がない野球ファンでも
「少年野球の球場でこんないい設備なのか⁉」
と楽しく散歩することが出来ると思います。
撮影した時は工事中だったので、中は全くと言って見られませんでしたが、逆に貴重かと思い、迷惑にならないようにパシャパシャ。
観客席の入り口付近には、こういったパネル?も立っており、野球ファンの聖地としての活躍もしてくれています。
是非とも近くに寄った方は、見に行ってください。田町駅から20分程度歩いても到着することが可能です。周りにはコンビニくらいしかありませんので、夏場などは熱中症にお気を付けください
P.N.馬食(野球雲スタッフ)
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