ぬかてぃのふらふら地域野球探訪 2 ~別府に残る稲尾和久~

実は別府市民球場というのは歩いていくにしてはかなりきついところにある。
私の母校別府大学の名前を模した駅、別府大学駅から2.1km。これだけ書くと大したことなさそうに思うのだが、別府という土地は別府湾から由布岳の山肌に作られたような土地。だから基本的には坂道を登ることが求められるのだ。実際別府大学駅から別府大学まで歩くのにそこそこ登らされる。受験の時「こんなに登らなきゃならないのか」と辟易したものだった。
そのさらに上の場所に別府市民球場があると言われたら想像はしやすいだろう。その2.1kmのほぼすべてが登りを求められる。泣こうが喚こうが別府に来た以上坂道からは逃げられないのだ。今思い返せばよくまあ歩いたものである。しかも自転車で坂道を登っていた。改めて若さっていいものだ。
そう、その坂道を汗だくになりながら私は別府市民球場まで登っていたのだ。
ちょうど蝉ががなり立てる夏だったことを記憶している。シャツの内側は汗でべとべとになって、額から蛇口をひねったように汗がドロドロ零れ落ちていた。
なぜそこまでして別府市民球場に行ったのか。それは稲尾和久ミュージアムが別府市民球場に生まれたからである。
高校の時に読んでいた野球技術の指南書で稲尾和久という投手を知った。自身のフォームがどのような形であったかを文章にまとめていたのを記していた。西鉄ライオンズを知らない世代にせよ稲尾和久は比較的近い存在だったのだ。
だから大学生の時には稲尾和久に関係する場所は巡ろうと思っていた。実際稲尾和久の生家も行った。竹瓦温泉の近くだからいやらしいお店も多く、よくポン引きの男性や御婆さんから「兄ちゃん、一回どうかい」と呼び止められ「3000円しかないけどいいかい」と返したものだ。
そんな別府市の雄を知れる場所があるのだから、と夏休み汗まみれになって行ったのだ。
実際行ってみると確かにあった。別府市民球場の真ん中に「稲尾和久ミュージアム」の文字が。心は最高潮。どんなお宝があるのだろうか。どんなものが置いているのだろうか。
開けてみるとがらんとした部屋にショーケースが数個。とりたてて映像もなく、グラブもない。スパイクが置かれていた。本当に初期も書記だったのだろう。奥で誰かが誰かと話している。
なんか、なんか私のいていい空間じゃない。早々にミュージアムから出た。
後々稲尾和久がなぜ大切にされないのか風の噂で聞いたことがある。「やれ別府に肩入れせず福岡ばかりに入れている」とかそういった類だった。それを調べる事も出来なかったので真実かどうかは分からないが、稲尾と別府の関係は色々な人の中で複雑だったようだ。
別府という街は野球と関係が深い。それは戦争の影がかなり濃い。
戦中多くの海が海軍の重要拠点であった事にもつながる。別に呉や佐世保だけが日本帝国海軍にとって重要な拠点というわけでもなかった。事実戦争末期は静かな別府湾で人間魚雷回天の練習場所に指定され、別府市より北にある日出町には回天のあった大神基地跡が大切に残されている。
そういう事情もあってか戦後にも多くの人がいた。その中で土木を営んでいた別府星野組が都市対抗で活躍すると同時に1950年のプロ野球参入を画策し失敗こそするもののその多くが毎日オリオンズに入団し荒巻淳をはじめとして多くの選手が歴史に彩りを与えたのは言わずもがなだろう。
別府の高校もまた野球が発展しており、緑が丘高校から河村英文、そして彼が連れてきた稲尾和久といった選手がプロの土を踏んでいる。緑が丘高校は1980年には大分市上野丘に移転してしまっているためもうその残り香はないのだが、明豊高校をはじめとして毎日オリオンズを引き継いだ千葉ロッテマリーンズに指名された大塚明を輩出した別府羽室台高校、プロこそ輩出しなかったものの明豊や柳ヶ浦を抑えて2005年、甲子園に行った別府青山高校と盛んであった。
多くの野球史が残っている別府ではあるが、中々それが掘り出されることは少ない。
別府湾には毎年日本の豪華客船たる飛鳥Ⅱが十二月頃来るのだが、ある年その飛鳥Ⅱで稲尾和久がトークショーをするという話を聞いた。しかし所詮は大学でも強化部に入っていた兼ね合いもあって練習とバイトの両立が非常に大変だったゆえに貧乏だった私がそのトークショーに行くこともなく、飛鳥Ⅱの見える上人が浜公園で「あの船に稲尾和久が乗っているのか」とうらやましく眺めていたものだった。
果たして別府にとって稲尾和久とはどういう存在だったのか。
学生生活を終えて20年経った今、そういうことばかり思い出される。
ぬかてぃのふらふら地域野球探訪 2 ~別府に残る稲尾和久~

P.N.ぬかてぃ
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