野球雲デジタルムック 30勝列伝①

プロ野球記録でもう2度と達成できないひとつと言われるのが、
シーズン30勝投手があります。

令和時代を迎えるにあたって、
平成時代どころか、昭和時代でもなかなかお目にかかりません。

今回は30勝達成投手をご紹介します。
30勝投手は延べ30回達成されています。

達成した投手は19人。

その中で3回達成したのは、
戦前から戦後に活躍した野口二郎投手、
そして、西鉄ライオンズ黄金時代を作った稲尾和久投手。
どちらも鉄腕投手と言われています。

球団別最後の30勝投手は誰か?

巨人は1955年大友工投手 30勝8敗

DeNAはDeNAの先祖大洋ホエールズと合併。
残念ながら大洋ホエールズとしての達成者はいない。

1950年松竹ロビンスの真田重男投手 39勝12敗
39勝はセ・リーグ記録だ。

ヤクルトは1963年国鉄時代の金田正一投手 30勝17敗

中日は1961年 権藤博投手 30勝17敗

広島は1955年 長谷川良平投手 30勝17敗

ロッテは1964年 東京オリオンズ時代、小山正明投手 30勝12敗

西武は1961年西鉄時代 稲尾和久投手の42勝14敗
42勝は日本記録でありパ・リーグ記録。

ソフトバンクは1968年南海時代の皆川睦雄投手 31勝10敗

ニッポンハムは1961年東映フライヤーズ時代の土橋正幸投手30勝16敗

オリックスは戦前の1941年阪急軍時代 の森弘太郎投手30勝8敗
戦後は1968年米田哲也投手の29勝13敗

楽天は別として、意外なことに阪神は球団史上30勝投手が誕生しませんでした。
しかし、1964年にジーン・バッキー投手が29勝9敗という惜しくも1勝足りない記録です。

セ・リーグ、パ・リーグでの30勝以上投手は、
延べセ・リーグ9人、パ・リーグ7人です。
セ・リーグ最初の30勝投手は1950年の真田投手39勝12敗。
パ・リーグは1957年の稲尾投手の35勝6敗。

30勝以上しながら最多勝のタイトルを取れなかったのは、
1959年稲尾投手 30勝10敗 (南海杉浦忠投手 38勝4敗)
1960年杉浦投手 31勝11敗 (大毎オリオンズ 小野正一投手 33勝11敗)
1961年土橋投手 30勝16敗 (西鉄稲尾投手 42勝14敗)
です。
勝敗の組み合わせでは30勝17敗が3人いるのが面白いです。

もう、プロ野球の現代のシステムでは30勝投手は二度と現れないだろうと言われています。
確かに、選手の体調を考えれば、酷使に次ぐ酷使の時代であり、
エースが先発、救援と大活躍した時代だからこその記録です。
しかし、記録好きとしては30勝投手が見てみたい・・・。という
妄想は捨てきれません(笑)

それでは総勢19人の30勝投手を1人ずつ紹介します。

伝説のシーズン30勝投手列伝 ①鉄腕投手 野口二郎投手

野口二郎

野口二郎は30勝を3回達成しています。

1919年1月6日生まれ。
中京商業時代に1937年(昭和12年)夏、
1938年(昭和13年)春の甲子園大会でノーヒット・ノーランを含む、
4試合連続完封勝利の選抜大会記録を出した優勝投手。

1939年(昭和14年)に東京セネターズに入団し、
1年目からエースとして69試合、38完投、459回を投げ33勝19敗の活躍。
翌年1940年(昭和15年)も387回を投げて33勝11敗。
防御率は驚異の0.93を記録しました。
しかし、最多勝は42勝15敗で巨人のビクトル・スタルヒン投手が獲ります。
1940(昭和15)年は33勝11敗 387回を投げ防御率は2.04と下がりましたが、
リームのエースとして君臨しました。
しかし、この年も巨人のスタルヒン投手(この年から登録名須田博)が38勝12敗の成績を残し、
最多勝になることが出来ませんでした。
1941年(昭和16年)は25勝12敗と勝ち星は減りましたが、
338回を投げ、防御率は前年より防御率は0.88向上して鉄腕振りを見せ付けました。

野口投手のハイライトは1942年(昭和17年)のシーズンでしょう。
5月23日に完投勝利したあと、翌24日の名古屋戦にも先発し、
今もプロ野球記録として残る延長28回を完投したことは、
野球史の中では燦然と輝きます。
名古屋軍の西沢道夫投手も28回を投げ抜いたのも当然凄い記録です。

1942年は40勝17敗 防御率1.19。
完封勝利19は、今も日本プロ野球シーズン記録です。
投球回数は400回を大いに超え、527.1回にも達しています。
40勝も、稲尾和久、スタルヒン投手の42勝に次ぐ記録です。
そして、初の最多勝投手になりました。

青田昇は著書の中で「まるでボールを小石のように投げている」と残しています。
澤村栄治のように大きなバックスイングでなく、小さなモーション、短いインターバルで、
ビュッ、ビュッと小気味の良い快速球で投げてきます。
そして、「148キロは出ていただろう球速なので打ち辛かった」と語っています。
その上、戦前投手の中ではナンバーワンのコントロールで、
ウオーミングアップでも捕手のミットはその位置を動かす必要もなく、
「野口のバッターの一番の弱点は、その最も得意とするポイントの5センチ上と5センチ下にある。
そこを突くのが打ち取るコツだ」
という言葉が印象的でした。

投手成績は、
237勝139敗3447.1回を投げ、防御率は1.96と、
通算防御率は2点台を切った驚異の数字です。
打者としても主軸を打ち、規定投球回数と規定打席の両方を満たしたシーズンは6回もあり、
通算安打は830本となります。

1946年(昭和21年)には
31試合連続安打のプロ野球記録を残した、好打者でした。
戦後は阪急で活躍し、引退後も長く指導者として活躍しました。

20勝以上を6回を記録したものの、
最多勝のタイトルは1回、通算防御率が1.96という記録ながら、
防御率1位も2回と少なめなのは、
当時の大エースの凄さを物語るものでもあります。

野口二郎は四兄弟で、4人ともプロ野球に入りました。
長男は野口明、次男が二郎、三男は昇(1945年戦死)、四男は渉。
野口四兄弟を基に2017年NHKでドラマが製作されます。
「1942年のプレイボール」と言うタイトルで、野口二郎を俳優の大賀が演じました。

2007年5月21日死去。

生前にもっと当時の野球を語って欲しい一人でした。

写真提供:古書ビブリオ

  投手成績

  打撃成績

伝説のシーズン30勝投手列伝② スライダーで完全試合を達成した藤本英雄投手

藤本英雄

藤本投手は入団2年目に34勝11敗を記録。戦前7人目、戦前最後の30勝投手です。 
右投右打、 1918(大正7)年5月10日-1997(平成9)年4月26日
朝鮮・釜山出身。

旧制下関商業時代の1935(昭和10)年春と1937(昭和12)年春の甲子園大会に出場し、
その後、明治大学に進学。
そこでは4年間で通算34勝をあげる活躍で東京六大学野球の頂点として、大人気の選手でした。
通算34勝は明治大学野球部の通算勝利数として今もトップです。

1942(昭和17)年9月に巨人軍に入団。
1942(昭和17)年の巨人軍は4連覇を目指して戦っていましたが、
前年の1941(昭和16)年に始まった太平洋戦争のため主要選手が徴兵され、
選手の層は薄くなっていきます。
その上、エースのビクトル・スタルヒン投手が故障がちのため、
藤本定義監督はやりくりに苦労していました。
そこに、1940(昭和15)年秋、
1942(昭和17)年春の優勝投手の藤本英雄が学徒繰り上げ卒業で、
ギリギリで戦っていた巨人軍に天才投手が入団するのです。

9月27日、藤本英雄はデビューしますが、
その前に読売新聞で大々的に藤本デビューを発表した為、
戦前の観客動員のとしては驚異的な16,942人を記録します。
戦争がはじまり、娯楽が減っていく中だとしても、当時は通常動員数が4〜5,000人前後でしたので、
藤本人気は凄まじかったと言えます。

この頃のペナントレースは、春、夏、秋と分かれていたので、
9月27日と今では大分遅いと思われますが、
藤本が入団後の残り試合数は11月18日までに27試合ありました。
しかし、その27試合の中で藤本は14試合に登板、半分以上登板!
12先発、9完投、4完封、10勝0敗、防御率0.81という記録を残しました。

翌、1943(昭和18)年の藤本のシーズンは、破天荒な記録のオンパレードとなりました。
5月22日対中日戦でノーヒット・ノーラン。
9月には62回連続無失点の記録を達成。
56登板、46先発、39完投、19完封、34勝11敗、勝率0.756。
432.2回を投げ、253奪三振、防御率は驚異の0.73!!
藤本の活躍によって、巨人軍は5連覇を飾ります。
試合数は84試合でした。(54勝23敗1分)
そして最多勝、防御率一位、最高勝率、最多奪三振と最多完封を入れ、投手五冠王を達成しました。

その後、藤本は25歳で巨人の監督になり、野球に厳しい時代に、
巨人軍、職業野球に多大な貢献をしました。

戦後、1946(昭和21)年、巨人軍でプロ野球に復活。
戦後初の防御率一位のタイトルを獲得(2.11)します。
その後も安定した活躍をするものの、給与のトラブルで中日に移籍、
1年で巨人に復帰しましたが、故障がちとなり、一時は打者転向も考えました。

1948(昭和23)年、多摩川で練習中に、
肩を壊して二軍で調整していた宇野光男内野手とキャッチボールをしていました。
藤本に「おい、ふーやん、今のボールは何や?妙な回転で、パット右へ切れたぞ」と言われたものの、
藤本はカーブを投げた訳ではなく、ストレートを投げていたつもりでしたが、
時折、再度右に流れるボールになります。
次第に流れるボールの握りも分かり、
それが藤本再起の魔球「スライダー」の誕生だったのです。

戦前の剛速球は影を潜めましたが、
藤本はコントロールも良く、巨人軍の野手たちもリズムよく守れたらしく、
野手との呼吸が合い、失点が少なかったのかもしれません。
1949(昭和24)年に24勝7敗で見事に復活します。
防御率1位も獲得(1.94)しました。

そして、1950(昭和25)年に藤本の野球人生で最大のクライマックスが訪れます。
それは6月28日に起こりました。

場所は青森市営球場。
対戦相手は西日本パイレーツ。場所は青森市営球場。
梅雨のシーズン、北海道から東北へ上っていく遠征らしく、
6月26日の試合は札幌円山球場で一日置いて青森で試合でした。
藤本は「青森での登板はない」と思い、
札幌から青森の青函連絡船でマージャンに興じていましたが、
先発予定の多田投手がカニの食べ過ぎで登板回避となり、
急遽、藤本が青森のマウンドに上がる事になりました。

立ち上がりは、強烈なライナーが飛び、不安定でしたが、徐々にギアが上がり、
終わってみれば、日本プロ野球史上初の完全試合を達成しました。

西日本打線は藤本のスライダーを狙っていたそうですが、
藤本はその裏をかいて内角2種類のシュートで組み立てたのが成功したのです。

1950(昭和25)年も藤本はエースとしての活躍をし、
49登板39完投(リーグ1位)、26勝14敗、防御率2.44を残しました。
打者としても素晴らしく、この年は7本塁打を記録します。
今も投手のシーズン本塁打記録として残っています。
先の野口二郎投手に劣らない二刀流選手の一人です。

その後、1955年まで現役を続け、200勝87敗 防御率1.90を残しました。
通算防御率の1点台は藤本を入れて4人いますが、3人が30勝以上経験者です。
藤本英雄の通算防御率1.90はアンタッチャブル・レコードの一つかもしれません。

藤本英雄 投手成績

藤本英雄 打撃成績

伝説のシーズン30勝列伝③ 日本初の300勝投手 ヴィクトル・スタルヒン投手

大映スターズ時代のスタルヒン(古書ビブリオ提供) 

30勝以上を2回記録したスタルヒン投手は、
1939(昭和14)年に42勝15敗 防御率1.73
1940(昭和15)年に39勝12敗 防御率0.97
2年間で81勝!!
1939年にはシーズン42勝は稲尾投手と並び日本最高記録です。
通算完封数83も日本記録で、共に神の領域といえるような記録です。

 

戦前は澤村栄治投手とともに ベーブ・ルースを中心とした全米選抜チームと対戦し、 
その後東京ジャイアンツ創設時から活躍しました。
戦前の巨人軍での活躍は 澤村栄治が兵役に取られた後、超人的な活躍で大いに貢献し、
1936年から1944年の短期間で199勝を記録しました。

1916年にロシアで生まれ、親族に王族がいた為、革命軍に迫害され、
1925年家族とともに日本へ亡命。
北海道旭川で無国籍ロシア人として生活していく事になりました。
旧制中学野球では早くも豪腕投手として名を広めましたが、
父親がおこしてしまった殺人事件で、大学進学を諦めました。
1934年の全米選抜チームと戦う為に、中学を中退して上京します。
その裏には無国籍状態、父親の犯罪歴をたてに恫喝され、
巨人軍発足にも参加せざる得ない状況だったとも言われています。

プロ野球では華麗なる活躍で人気を博したが、 
戦時中は『須田博』と登録名を変えさせられ、プライベートでは苦渋をなめていました。
その須田博の名前で1940年のシーズンは39勝で、最多勝のタイトル獲っています。

戦争末期には軽井沢で「敵性国民」として軽井沢に軟禁されてしまいます。
そして戦後、進駐軍の通訳として働いていた所、偶然巨人時代の監督藤本定義と出会い、
プロ野球(パシフィック球団)に復帰しました。 
ただし通訳といっても、日本で育っていたため英語は話せなかったそうです。
戦後の活躍は、戦前の剛速球と違い、
技術を使い交わすピッチングで、トンボユニオンズに在籍しました。
そして1955年を最後に引退します。
通算303勝176敗 防御率2.09 完封数83の素晴らしい記録を残しました。

しかし、引退後1年と少しの1957年1月12日、
自ら運転しているところ 東急玉川線と激突、交通事故で亡くなってしまいます。
その死には、未だ不可解な点があり、事故なのか、自殺なのか謎が残っています。
そして生涯無国籍だったとの事です。
野球で生活を支え、野球しかなかったスタルヒンには、野球のない人生設計に対して、
落とし所が出来なかったのかもしれません。

1960年野球殿堂競技者、最初の表彰者でもあります。
スタルヒンのあまりにも早い死は、
プロ野球選手のセカンドキャリア問題に対して、
考える歴史の一つだと思ってしまいます。
戦前、戦中、戦後と時代に翻弄されたスタルヒンですが、
日本にプロ野球がある限り、澤村栄治とともに伝説の選手として、
顕彰続けられる選手でしょう。

トンボ時代のスタルヒン投手のユニフォーム他

  ヴィクトル・スタルヒン投手成績

  ヴィクトル・スタルヒン打撃成績

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